先の記事、クリスマスというタイトルながら書庫は「食べること」で
我ながら可笑しくなってしまいました
それで、というわけでもないのですが
ちょっとクリスマスにちなんでカミングアウト的なことを記したいと思います
全く個人的なことなので読まないほうがいいかもしれません(笑)
読んでくださる方、適当にスル―してくださいね
実は隠れキリシタンです(笑)
中学生くらいの時に教会学校のようなところに行っていました
発端はどうしてなのか覚えていませんが
お友だちに誘われて、というところだと思います
宣教師の先生のお宅のホームパーティーにも良くいきました
そのつながりで高校生の時にバイブルキャンプというものに参加しました
以来、教会に通うようになり、入信しました
教会学校の先生はSと仰る女性で、
私達の母くらいの年齢ながら
きれいなパステルカラーのワンピースをよくお召しになっていて
金髪の髪とよくあっていて
さすがに外国のご婦人は違うね、って
私達田舎の女子校生たちはそろって思ったものです
私が通っていたのはそのS先生が中心になって立ち上げた教会でした
牧師さん一家の住居と一緒になっていて
ところどころDIYが見え隠れするアットホームな教会でした
今は場所を変えて、あの頃よりずいぶんと立派になっています
東京の学校に通うことになり
地元の教会から紹介された東京の教会に通いました
田舎から出てきた私をとても歓迎してくれました
こちらも当時とは変わって可愛らしくなっています・・・
学校はちょっと流派が違いながらも(笑)ミッションスクールでしたので
宗教関係の学科では聖書を科学的に学んだりして
とても興味深く面白かったです
また私は課外で音楽もやっていたので、ミサ曲、レクイエム、受難曲、オラトリオなど
キリスト教に関係する文化・芸術の奥深さに身も心も溺れ尽くした青春でした笑
学校を卒業して間もなく結婚しましたが
私自身イマイチ押しが弱くて結婚式は神前でした(笑)
夫の勤務が不規則な新婚夫婦故、日曜礼拝にも行かないことが多くなりました
教会のかたに、たとえ教会に来なくても信仰は守れるもの、
と慰めてもらったりしました・・・
娘が生まれて、幼稚園はキリスト教系のところを選びました
というか、キリスト教でも仏教でもよかったのですが
とにかくお父さん・お母さんより偉い人がこの世の中にいる、
と、具体的に分かって欲しかったのです
キリスト教の『祈り』は
小さい子でもそのことが実体験としてわかるとても良い機会だと思います
祖父・祖母等と同居しない核家族タイプの我が家では
娘にとって父母が最高の権威であるという事態になりがちですが
私達はまだまだ修行中の若い親ゆえなおさらのこと、ふんぞり返っていては
親子ともども碌な事はない、と思ったからです
父親、母親は偉い、でもそれよりもっと偉い存在がいる、
それがおじいちゃまやおばあちゃまでなければ
神仏に代わってもらうほかないと・・・(笑)
勤務が不規則ゆえに夫不在が多い娘との食卓では
食前の祈りで必ず、お父様が元気でご飯を食べていますようにと祈りました
神様の力を借りると、親も謙虚になり、素直になれたように思います
私が学生の頃、生涯を捧げる意思を示す終生誓願をし、
その式典に叔母の兄である私の父が、母といっしょに
叔母の親代わりとして列席しました
会場にいた神父様たちに(妹を)盗られてしまったような気持ちになる
と、その時父が言っていたことを今でも思い出します
父は、私達子供に対してですら決して指図めいたことを言わなかった人ですが
それでもやはり兄としては、
何も一生シスターでいなくてもいいのに、と思ったのでしょう・・・
私にとってこの伯母は”流派”は違いながら(笑)信仰上でも大変心強い身内です
今、私は相変わらず教会に行っていません
いろいろ紆余曲折があって・・・(笑)
でも『主の祈り』も『使徒信条』(←私の流派のバージョンです笑)も、
いまだにちゃんと言えます
その昔、キリスト教が日本に来た頃
宣教師が、信ずれば救われる、と人々に説いたところ
その説話を聞いた日本人たちは口々に曰く
「このことを知らない誰それは信じることも知らずに救われないんだ、
ならば自分だけ救われるわけにはいかない」
ということでキリスト教がうまく広まらなかったという話もあります
本当かどうかわかりませんが、実に日本人らしい反応だな、と思います
『八百万の神』への畏敬が私の潜在意識のなかに居座っている、
と時々思うようになりました
そして、キリスト教も仏教も、
『お天道様が見ているから』という精神に纏められてしまうような気がします
商売っ気満載の日本のクリスマスですが
人々はそれぞれの思いの中に自分なりのクリスマスを取り込んでいるように思います
それが日本のクリスマス、ですかしらね・・・