バルセロナを案内してくださった現地在住の日本人ガイド鈴木さんによれば
バルセロナの人々のバルセロナ愛、カタルーニャ愛というのは
特別なものがあるそうです
それは一にも二にも
この豊かな発展した地域が、スペインや周辺の国々からたびたび圧迫を受け
必ずしも平和裏に扱われてこなかったからです
なんなら、その富だけを奪われて、
特にフランコ政権下ではカタルーニャ語の使用を禁止され
文化的には抹殺されそうな勢い
私たちは自らのアイデンティティを否定されるとき
最も、辛く、悲しく、怒り溢れてくるように思います
この憤怒の果てに
とりあえず公用語はカタルーニャ語、おまけで(!)スペイン語
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1. カタルーニャの独自の言語はカタルーニャ語である。
2. カタルーニャ語はカタルーニャの公用語である。また、
スペイン国家全体の公用語であるスペイン語も公用語である。
— 1979年カタルーニャ自治憲章第3条
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そうは言ってもスペイン語がどんだけ嫌われているのか
公の交通標識、ガイド板などもスペイン語がなくて(!)カタルーニャ語表記です
鈴木さんのお話によると、バルセロナオリンピックの時は
カタルーニャ語
フランス語
英語
だったとか
スペインなのにスペイン語が無い??
ただし正式にはちゃんとスペイン語もはいって4つの言語表記がなされていたようです
あるにはあったのですが、この地域の盛り上がりも加わって
無きが如く、の勢いだったのでしょうね、おそらく・・・
この辺りに暮らす人々は
結局、この4言語くらいは通常使えるということだと思います
オリンピックに関する興味深いレポートがありました
バルセロナの地域性とカタルーニャ語の位置
また、オリンピックにおける公用語の意義、などについて
バルセロナオリンピックがそれらの考察の契機になったようです
お借りします☟
スペインが生んだ数多くの天才のうちの一人アントニ・ガウディが設計し
グエル伯爵がそのスポンサーとなった分譲住宅地
あくまでも単なる分譲住宅地への入り口が、今では世界的名所です
『人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる住宅地という価値観は、当時理解されず
結局、広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが買い手がつかずに
開発は中断・・・』
これが1900~1914年のこと
今だったら絶対成功してたと思うのですが・・・・
建ぺい率とか、周りの環境、共有部分への配慮からくるかなりな制約とか
ただそれ以上に交通が不便で
地形的にも決して住宅建設地向きではなかったようで
そのあたりも住宅に買い手がつかなかった理由であろうと言われています
1914年、日本だったら大正3年、第二次大隈重信内閣
その時スペインでは
物好きガウディとグエル伯爵が
都市景観を第一に考えた団地つくりなんてことをしていたのですね
雨水貯槽システム、市場、公園、管理棟、等あり、
芸術的、環境重視型住民のためのコモンスペース完備
ただし交通の便悪し・・・・
バルセロナ市街を一望できる展望台は
独特なデザインの大きな広場になっています
これが市場が開けるように設けた大きなホールの天井だなんて
その意表を突くデザインとともに
「団地」にこんなに大規模な広場を構想し、作りあげるというのが驚きです
この下が大きな貯水槽らしい
雨水を貯める工夫、
これが大正3年・・・・
日本も首都圏をゲリラ豪雨から守るための地下貯水槽を作りましたよね
埼玉の有名なあれって、できたのは2000年に入ってからですよね
首都圏外郭放水路(春日部市)、通称「地下神殿」
もっともここでの貯水システムの目的は日本とは正反対で
雨の少ないこの地方で貴重な水を確保すべく、雨水を受けて貯める装置、ですね
この柱を通って上の広場(展望台)に降った雨水がこの下に貯水されるのだそうです
ここに市場がずらりと並べば
それはそれで名物になっていたでしょうね・・・・
カサ・ミラ
ちょっとびっくりするデザイン
でもこの建築物を作り上げた技術もすごいですよね
サグラダ・ファミリア
ただ一言、すごい・・・・
この世界的な建築物が
車がガンガン走る道路のすぐ脇だっていう、ね・・・・
ステンドグラスが美しかったです
外見の荘厳な聖堂のイメージとは違って、
中に入ると
西暦2500年とか、未来の建物、という感じのデザインが随所にありました
今もって、文字通り、近未来の建物・・・・
美しすぎる天井
2012年 6月の青い空に映える尖塔
ムンジェイックの丘から眺めた地中海
ピレネー山脈までは120キロくらい
地中海は目の前
バルセロナでは夏のレジャーと冬のレジャーが同時に楽しめる、
なんて聞いたこともあります
バルセロナの有名市場ラ・ブカーリア(サン・ジュゼップ市場)
についてはこちらを・・・