今さらでもないのですが
今、義母は、自らが老いるという現実に直面し
その理解のために必死で戦っています
理解できなければ、受け入れることができなければ、
自分ではない自分と向き合わなければならなくなり
それはけっこう辛いものがあるからです
義母はほとんど毎日、日祝日も含めて
外に出向く用事があるような生活をしていました
現職のころは、平日言うまでもなく仕事、
仕事の無い日はプライベートな用事での外出
とにかく、昼間の間はほとんど家にいないような人でした
今、自由にならない体を抱え、車の運転をもぎ取られ
外出の自由を奪わてしまいました
今まで出席していた集まりが、ひとつひとつ、参加不可能になっていきます
万が一出席した場合、自分が皆の足を引っ張る可能性が大きいことをみじめに思い
その結果出席できないと決断したことで、相手への欠礼となることを嘆きます
そう私に何度も何度も訴えかける様に、嘆いてこぼします
そういう事が、ほとんど毎日繰り替えされて
その一つ一つが大きな嘆きのたねとなり
それはもう、一時間おきにくらいにため息と嘆きと自己嫌悪が繰り返されて
結果、
生きていること自体への嫌悪感へとつながってしまうのです・・・
老人の鬱、厄介です・・・・
動作が緩慢だったり、いろいろ周りに手伝わせてしまうことになったりしても、
歳なんだからある程度それは当然のことで、
みなそんなことくらいわかっているから出席しても誰も迷惑だなんて思わないよ
其れが嫌で欠席したとしても
出てこなくて失礼だ、なんてことにはならないよ・・・
なぜって、歳をとるということはそういう事も含んでいるから
私のみならず誰だってそう思うよ
と、義母に説明するのですが
義母に対してはまるで説得力がなく、それがとても不思議でした
しかし義母と暮らしながらいろいろ考えてみると
それらの集まりに出席し、そのメインスタッフになっていることこそが
義母のアイデンティティなのだということに気付きました
だとすれば、そこの構成員ではなくなることは
義母にとっては自身を削られるようなものなのかもしれない・・・
日々、自分が自分ではなくなっていく姿に直面していくのは
それはなかなか辛いものがあるだろうな
と、思うに至りました
自分のよすがとして大切に保ってきたものが失われたとしたら
そしてそれはふたたび取り戻せない運命であるとしたら
無くしたものがその人にとってどれだけ大切なものだったか
それをしっかり理解して
なくしてしまった悲しみをちゃんと共有しないとだめだということですね
もう歳なんだからという言い方は説明としては論理的に正しいのだけれど
しょうがないんだからあきらめなさい、と
問答無用で言い放つようなものですね
心がない・・・
時間をかけて、納得してもらうしかないですね
ただし、あまり時間も残されていないかもしれなくて
だからなるべくはやくはやくふっきって、
次の新たなステージに志向を設定して欲しいなと
痛切に思う次第です・・・